物事の本質は万国共通ーことわざは先人からの教訓ー
「日々成長している」
そう思って毎日を過ごすのが私の目標。
毎日何かを吸収して、考えて、アウトプットしていきたいです。
「続けること」
これが一番大事です。
物事の本質は、
国や言語、習慣が違っても同じ、かと。
特に
ことわざは先人が残してくれた教訓。
例えば、
中国語:「两天大雨 三天晒网」
日本語:「三日坊主」
英語:「Rome was not built in a day」
ニュアンスは違えど、どれも同じようなことを伝えていると思います。
佐渡島さんの「ぼくらの仮説が世界をつくる」を以前読んでいて思ったことは、
家族を思う心
友人を思う心
美味しいものが食べたい
安心できる家に暮らしたい
いろんな欲求はあるけれど
そういった人の根本の願いというのは
万国共通。
みんな幸せに生きたいのだよね。
ただそれだけだよね。
熊本地震のテレビ報道で思うこと
今も余震が続いている。
テレビ報道を見ていて思うこと。
上海にいて、日本のテレビ(マンゴーというもの)と契約しています。
時々テレビがつかないことがあります。
地震が発生した時、テレビがつかなかったので
ネットで情報を仕入れていました。
住民の方による被害写真、動画がリアルタイムでtwitterを中心に発信されていました。
テレビは要らないんじゃないか、と言われます。
私もテレビを離れて、めっきりテレビを見なくなったし、
経済やビジネス等のスピードが激しい世界では価値ある情報は大手既存メディアの中にはないということも上海のベンチャーの会社で勉強をさせてもらって分かりました。
また災害時にテレビなんて見られないという声もあります。
だけどどこかネットで情報を収集していて感じたことは、
全体像が見えないこと。
細かい箇所の情報はわかるけれど、
全体が見えないからすごく不安でやっぱりテレビが観たいと思いました。
これは災害だけではなく平常の報道においても同じことが言えると思います。
既存メディアは全体像が得意。
逆にネットは細かい情報が得意。
だけど、ネットに上がる細かい情報は声をあげられる人のみの声。
(若者が中心とか、情報発信に長けている人)
そういった声をあげられない人の間を取材して隙間を埋めていくのが記者さんの腕。
きっとそれは新聞社や通信社が長けている。
既存メディアはじゃあ次に何をしなきゃいけないのか。
それは「分析」だと思います。
いろんな専門家に取材していろんな角度から物事を伝える。
ネットにいろんな情報が溢れているけれど、
信頼できない部分もある。
もちろんテレビが取り上げる専門家だって全部が信用できるわけではない。
けれど、テレビが情報発信をする上で
きちんと【機能していれば】局内部で様々な「ふるい」をかけられて淘汰された情報であるはず。
もちろんきちんと機能していれば、の話だけれど。
この「分析、淘汰」これが今後テレビ局の存在価値になると私は思っています。
どうか、熊本をはじめ九州・日本にこれ以上の被害が出ませんように。
安全な暮らしになりますように。
言語化するということ
人生でたくさんの思い出を作ること。
これが目的になってはいけないけれど、
死ぬ時に
「大切な人に出会えたな」
「あぁ、私いろんな経験ができたな」
「挑戦したな」
そう思える人生にしたい。
なんのために生きるのかな?
そんな壮大な疑問は人それぞれだけれど、
言語化することによって明確な答えを得られて、
人は迷わなくなる。
説明がわかりやすい人、
キャッチコピーが刺さること、
わかりやすいから大きな影響を与える。
本を読んでいて、
「そうそう、しっくりくる!」
「そう思っていた!」
共感や、発見や、すっきりする感覚を味わえるのは
作家が言語化してくれたことが腑に落ちるからだと思う。
だから、
何のために生きるのか?
私にとって生きるとは、たくさんの素敵な、キラキラした、思い出を作ること。
だから
大切な人を大切にしたいし、
自分がやってみたいことは挑戦してみたい。
その先にどんな世界があるのかを見て、記憶してみたい。
だけど人間関係で厄介になるのは、
感情。
感情はモンスター。
カッ!となってついつい思ったことを言ってしまう。
相手がどう思うかとかを考えずに
「別にいいじゃん、そう思っているんだから」と開き直ったりする。
深呼吸して、スペースを取る。
「本当はどうしたいの?」
自分の胸に問うけれど、うまくいかないこともある。
起こしてしまった失敗や後悔を嘆くよりも
次にどんな行動を起こすのか。
一旦決意したこと、自分の悪いところを
「やめる」ではなく「やめ続ける」。
「ごめんね」
「ありがとう」
は言葉の魔法。
それで相手が分かってくれなかったら今はそのタイミングではないということだよね。
やれることはすべてやってみる。
好きなことが分からない
就職活動での自己分析。
「自分がやっていてワクワクすることは何?」
「楽しくて仕方がないことって何?」
それを突き詰めてみましょう!!
とキャリアセミナーで言われたことを思い出しました。
その時は「ダンスが好きです!」とか部活のこと等を言っていた気がするけれど
私がここ数ヶ月で気付いたことは
何が好きか分からないってこと。
でも、この1週間でなんとなくぼんやりと「あ、私これが好きだな」と思うことが見えてきた気がします。
大事なことは、
「自分は何が好きか分かっていない」
ということに気付くこと。
私は、ずっと「〜が好き」、「〜したい」と何が好きか分かっているつもりでした。
だからいつもいつも将来のことばかり話していたんです。
MBA取りたい、あの会社に入りたい・・・等。
でも、何で?と聞かれると
「かっこいいから」という答えしか出てこない。
「かっこいい」でもいいんです。
私はその思いがあったから、受験勉強や部活や就職活動等頑張れました。
「かっこいい、手に入れたい」という思いは原動力になるんですね。
だけど、振り返るとそういうものって
「手に入ったら満足」
で、それをしている時が
「楽しくて楽しくて仕方ない!!」
とは私の場合、なりませんでした。
だからまた次の「かっこいい」と思うものを求めてまた何か目標を決めて頑張ってきました。
「あなたは何かを乗り越えることが好きなんだね。ハードルが高ければ高いほど燃えて、また新しいハードルを乗り越えることに喜びを感じるんだね」と言われたことがあります。
そうかもしれないなって思いました。
頑張ることが好き、手に入らないものを追うことが好きなんだ、と。
でもね、
もしかしたら違うのかもしれないなって思っているんです。
「私はまだ何が好きか分からないからこそ、それを知りたくて頑張ってみようと挑戦している」のではないかな、と。
どうしても大手志向だったり、ブランド志向だったり、学歴主義の塊である私は、
「かっこいい」と思うものも周囲から「かっこいいと思われるもの」であろうものを選択してきた気がします。
でもそれも間違いじゃないと思っています。
今見えてきている「本当に好きなこと」が分かるためには必要だったし、
「かっこいい」と漠然と思っていたことは好きなこととそんなに離れていません。
ただ、ちょっとだけ、ほんの少し近いところにいるけれどズレていました。
自分と向き合ったこの1年。
まずは「何が好きか分からない自分に気付くこと」が大きな一歩でした。
そしてこれだけは言えること。
人は「本当に嫌なこと・苦手なことに直面すると体がSOSを出してくれる」ということです。
その声は、とても大切にしてほしいと思います。
何が好きか分からなくても、そこにいられるのならばそれは嫌いではないということ。
でも本当に嫌いで嫌だと思うのなら、逃げたっていいんです。
この頑張りの先になにも光が見えない時はどうぞ逃げてね!
環無端
昨夜、